トレーサビリティと食生活

2008/06/25


ミルフィールド・コミュニティ・スクール(以下、MCS)はロンドンの北、ハクニーという低所得者層の多く住む地域に位置する公立の小学校である。住民の多くは移民、難民、アサイラム・シーカーなど多国籍者で、言語や価値観の多様化した彼らの間では犯罪も頻発し、この学校内に入るだけでも厳重なセキュリティチェックを受けなければならない。

かつて、MCS小学校に通う生徒たちもその風潮に巻き込まれていた。究極の貧困の中で善悪の区別さえつかないだけではなく、40ヶ国の言語が飛び交ってコミュニケーションもまともに取れず、注意した教師に危害を加えては警察が学校内に介入する事態も日常化していた。校内の備品はことごとく破壊され、トイレは掃除の施しようがないほど落書きや血糊が付着し、いつも生徒と教師の怒号と罵声が飛び交う状況だった。現校長のアナ・ハサンが就任する2000年までは、ロンドンでも最も荒れた学校として知られていたほどである。

アナ・ハサンが就任してまず最初に行ったことは、貧しさのために朝食を食べられない子供たちに、学校で朝食を摂らせることだった。親たちと教師たちは「そんなことをしても意味が無い」と真っ向から対立したが、アナ・ハサンは朝食を提供するための基金支援を内外に募り、親と教師との協力を求めた。

「当時は環境教育どころか、教える以前の問題でした。生活の基礎作りをしなきゃならなかったんです。朝ごはんを食べて来られない難民や亡命者の子供たちは、前日の晩御飯もちゃんと食べられないほど貧しいため、学校とは食事を出してくれるところだと思っていたのです。ところが、ほとんどの教員や親たちがそんなことは学校の責任じゃない、と言うんです。でも、この子たちの現状を見て何が必要であるか、そんなことは常識でわかることです。『もし、アナタがこの子だったら、何をして欲しいと思う』と皆に問いかけていくうちに協力者は徐々に増えていきました」

アナ・ハサンの考えに賛同した教師はまず生徒を怒鳴りつけることを止め、一人の人間として接することに心を砕いた。親たちや企業からの基金も増えると同時に、ロンドン政府からの補助も増え始めたのは、当時教育改革を謳っていたトニー・ブレア元首相の後押のひとつであった。

生徒の朝食改善に取り組んでしばらくすると、給食が環境学習の面で時代の要請に繋がっていることにアナ・ハサンは気づいた。子供に食事を与える以上、地球環境に順応したオーガニック食品であるべきと考え、学校給食から脂質の多い加工食品やチョコレートなどの菓子類を排除し、出所の明確なオーガニック食品だけを生徒の給食として提供することにしたのだ。このことは、ソイル・アソシエーション(SA)*1の目指すフード・フォ・ライフ(健康な生活のための食事)のキャンペーンにも合致していた。アナ・ハサンがSAとコンタクトを取ると、SAはMCS校のためにオーガニックフーズを提供する業者を選定するシステムを構築する。その中にはチャールズ皇太子の経営するオーガニック農場と販社も含まれていた。こうして、健康食品の提供ルートは容易にトレース可能となり、SAの提唱する「健康な食品は健康な土壌から」というスローガンの理解へと子供たちを導くことになる。

MCS校の改善の成果は数多く見られる。加工食品に慣れ過ぎていた子供たちの食事に対する意識改革に始まり、学校全体で環境教育の理解に達したということで、2006年にはSAからFood for Life School賞というオーガニックフーズの最高栄誉賞を受賞している。さらに、2006年にアナ・ハサン自身が大英帝国勲章でデイム(レディ)の称号を授章し、当時の首相トニー・ブレアの表敬訪問、さらに2007年3月にはチャールズ皇太子とカミラ皇太子妃が表敬訪問している。そして、英国内だけではなく、海外のメディアからも注目を浴び、現在では同校の見学希望者が絶えない。そのレデイ・アナ・ハサンの言葉は淀みなく自信に満ちているが、慢心さは感じられない。

ana.jpg「きれいな台所なくして良い学校とは言えないわ。ブレア首相や皇太子殿下にもお伝えしたんです。良い食事が学校の文化を改善し、生徒を変えたんです、って。そして、給食の材料を生産する農場で観たこと、学校の屋上で作物を育てた経験、いろいろな食材の試食イベントを通じて、将来生徒たちが自分で食事と環境についての正しい判断ができるように指導すべきと考えたのです。食材の流れを辿って行くと、それが環境教育に結びついてしまいました。それは必然の成り行きでしたね」

行政側はどの学校にも同じ機会と予算とを与えているが、アナ・ハサンのような学校経営者として優れた人材が容易には得られない現実がある。しかし、アナ・ハサンの成功は、ひとつひとつのことを丁寧に達成していった成果である。彼女にとって、食物連鎖をモデルにした食品のトレーサビリティの実践でさえ、食物の安全と健康を確認する常識のひとつだったのだろう。

*1 ソイル・アソシエーション:Soil Association(英国土壌協会)。英国の代表的なオーガニック認定機関。同団体が作成した学習教材は食物連鎖とトレーサビリティを指導する多くの学校で利用されている。http://www.farmtrails.org.uk/index.html


(文と写真)マック木下
日英関係史、英国の産業、環境などの社会問題を中心とした記事を主流に執筆するフリーライター